福島の菜の花畑からつながるオモイ
2016年に発売されたソープ『つながるオモイ』が2024年の春、デザインや使い心地を新たに数量限定で再登場しました。このソープには、東日本大震災による地震、津波、そして原発事故の被害を受けた福島県南相馬市で、農地とコミュニティの再生のために生産が始まった高保湿の菜種油を配合しています。今回の再発売を機に、菜種油を生産するサプライヤーの皆さんを訪ねて久しぶりに南相馬に足を運んでみると、咲き誇る菜の花畑を目にしながら大切なことをまた、思い出したのでした。
土壌の変化に気付かされる、震災からの年月
ラッシュがこの菜種油を使って、商品開発に着手したのは震災から4年が経った頃のこと。当時のチャリティプログラム担当者が、被災地の助成プロジェクト訪問の帰りに南相馬市で市民放射能測定に取り組むグループに出会い、彼らが農地再生のために種を撒き始めた菜の花の存在を知ります。
震災の影響で家を失い、居住が制限され、生まれ育った故郷を離れざるを得ない人も多くいた中で、何十年も続けてきた生業の有機農業や地域のつながりが「一瞬にしてちぎられてしまった」と話す南相馬市の有機農家、杉内清繁さんは故郷での暮らしをなんとか取り戻せないかと模索していた時、仲間から「ウクライナに行ってこい」と声をかけられます。1986年にチョルノービリ(露語チェルノブイリ)原発事故を経験したウクライナでは、放射性物質で汚染されてしまった農地で栽培されるヒマワリやナタネといった油脂植物を栽培していることを聞きます。植物が土壌中の放射性物質であるセシウムを土壌から吸収するという秘めた力を頼りに、農地の再生に取り組む現地の様子にヒントをもらいます。当時は、福島県産の農作物を手に取ることに抵抗がある方もいたといいますが、油脂植物の種子から油を絞ると、土壌中のセシウムは油に移行しにくく、放射性物質が入らない安心・安全な食用の菜種油を生産できることに希望を見出します。
翌年、「菜種油ができました」と杉内さんから連絡を受けたラッシュジャパンのバイイングチームは、この原材料を使って商品開発ができないかと、本国イギリスのバイイングチームと商品開発チームへ提案をしたことから、この福島の菜種油とココナツオイルをブレンドして自社開発した石鹸素地が開発され、この石鹸素地を配合したソープ『つながるオモイ』が出来上がりました。
「『つながるオモイ』は、心強かった」と、当時を振り返りながら杉内さんが言葉を紡ぎます。「私たちのオモイを認識してもらって、油を活用してもらえていること。それが商品名につけてくれた『つながるオモイ』ですよね。失礼な話なのですが、たくさんの商品があるラッシュは良いものだということはわかるんですが、自分たちが育てた原料でラッシュの商品が作られていること以上にその商品がどういう風に使われているのかまではわかっていなかったかもしれません」。
そんな杉内さん、実は『つながるオモイ』の商品開発の話が出る前、もっと言えばラッシュと出会う前に、震災後一時的に避難していた栃木県内にあるラッシュのショップに足を運んでいました。「ウクライナから帰国後もヒマワリのことが忘れられなくて、現地で聞いたヒマワリが自分にとって身近なものになっていました。ラッシュさんのお店とは認識してないでたまたま入ったお店でヒマワリの石鹸を見つけたんです。何かに通じるような気がして、その石鹸を買って帰ったんです。それからその石鹸を自宅の部屋に置いてました。その後ですよ。南相馬市に戻ってきてからラッシュの皆さんに出会ったのは」。
それから8年、南相馬の圃場に咲く菜の花に再会し、杉内さんと一緒にナタネの栽培をするアグリあぶくま株式会社(以下、アグリあぶくま)の星野賢一さんが震災から10年以上が経った福島の土壌の変化を教えてくれました。「現在菜の花栽培をしている圃場のほとんどは、農地除染や基盤整備により土を入れ替えています。汚染のないきれいな山砂に交換されていますが、汚染がない代わりに栄養もありません。だから最初から土づくりをしなければならないのです。化学肥料や農薬を極力使わないで土づくりをすること、つまり有機の肥料づくりは農家にとって大変で苦労が伴いますが、まずはそこを何とか克服していきます」。
「セシウム134の半減期は約2年、セシウム137の半減期は約30年。震災からもう13年が経ちました。農地除染した圃場で育てた菜の花からは、現在ではほとんどセシウムは検出されませんが、油断せず計測し、自分たちが暮らす環境の変化を監視し続けることは大切です」。
震災からの時間の経過を感じるとともに、「汚染された土壌の浄化」として始まった南相馬でのナタネの栽培が次のフェーズに進んでいくのだと感じたのでした。
菜の花畑の広がりがつなげていくもの
では、これからナタネの役割は、どのように変わっていくのでしょうか。
2011年の試験栽培から始まり、営農再開後少しずつ種を蒔いたというナタネの圃場は、ソープ『つながるオモイ』が発売した翌年の2017年には32ヘクタール、2024年現在「菜の花ベルト」は南相馬市を超えて広がり総面積は50ヘクタールを超えました。
農地の有効活用や、ナタネの種子を絞った菜種油が放射性物質「ND (不検出)」という実績を知った近隣の浪江町や富岡町の農家の方々の中には、故郷に戻り、農業を再開する人が出てきたといいます。「我々がナタネの栽培を進めていることを聞いて、連絡をもらいます」と杉内さん。「それから、我々が知っていることを可能な範囲で伝えながら、最大限努力して収穫できたナタネをアグリあぶくまで購入させていただいてます。この動きを広げてはいきたいけれど、きちんと取り組みの礎が共有できていることが重要です。信頼関係が築けるよう、品質の良いものができるように、お互いの技術をできる限り交換します。自分だけが儲かればいい、そういう考えではできません」。
様々な環境の変化がありながらも、菜種油の生産を継続してきたことで、広がりを見せるつながりもありました。数年前、南相馬市の教育委員会へも安心・安全なこの菜種油の品質情報を提供したところ、地域のブランド品としての可能性も評価され、ついに2021年からは市内の学校給食でこの菜種油が使われ始めたと聞いた時、私が食べた子どもの頃に食べた給食には誰がどこで作った油で作られていたのだろうと考えてみましたが、その答えはもちろん出ませんでした。それもそのはず。現在、国内に流通してるナタネの99%以上は海外から輸入してるものなのです。「そのうち9割近くが遺伝子組み換え。そういうものが当たり前に消費者の口に入ってることは、いてもたってもいられない。私よりも若い世代の人たちにも、食べ物が作られる現場に目を向けてもらいたいんです」。当初は地域からの抵抗もあったという地域の学校給食で地元産の菜種油が使われ始めたことは、地域の再生にとって大切な一歩となりました。
今回、南相馬を訪れると、もう一つの大切な一歩を目にすることができました。最近、アグリあぶくまに新しいメンバーが加わったのです。「今度ね、うちの会社に異色の2人が入ってきたんで、面白い展開が考えられたらと思ってるんです」。こんな話を聞かせてくれる杉内さんは、なんだか嬉しそう。「若い世代の仲間が加わったんです。彼らは元々、隣の相馬市で料理をしてた人たち。これまで農家は作物を育てたら農協に出荷したらおしまい、ということも多かった。これから我々は6次化に取り組んでいきたい。農作物の生産だけでなく、食用油の製造、それから消費者のニーズに応えるような製品作りや販売。この安心・安全な油を使ってね」。
脱色も脱臭もしない、自然そのままの菜種油が象徴するもの
「ナタネの種子から油を絞り始めた時、脱色・脱臭しないと売れない、と業界の方に言われた。でも私は『色と香りは抜きたくない』って言ったんです」。杉内さんたちの菜種油は色も香りも、自然そのまま。
南相馬で土と向き合うアグリあぶくまの皆さんは、とことん自然と向き合います。
ナタネは、何年も同じ場所で連作すると収量が減ってしまうことがあると杉内さんは言います。「ナタネの栽培自体はそんなに難しいわけではないと思われるけど、2年、3年と続けるとその難しさにも直面して、続けることが難しくなることもあるんです。連作障害と言って、何年もナタネだけ栽培するとうまく育たない。化学肥料や農薬を使いたくないので、米や大豆、麦などと交代で栽培します。米は毎年、連作しても大丈夫なんですけどね。水田をやった翌年にナタネを植えると、農薬を使わずに雑草の種を死滅させるのでナタネがよく育つ。いろんな作物をうまく交代で育てると多様な微生物の力で土が痩せにくくなるから2年間で三作物くらいを交代で栽培した方が良いんです」。
ただ、自然を相手にしていると想定通りにいかないことも起こります。「去年は大豆を10町歩(10ヘクタール)くらい育てました。それが、暑さで収穫できなかった。尚且つ、大豆収穫後に圃場をそのままにしておくと次の作物の播種時期が終わってしまって使えない。だから大豆は諦めて、全部廃棄したこともあります。自然は、待ったなしです」。
何十年も土を育て、有機農業に勤しむ杉内さんの話を聞くたびに、私たちは自然に生かされているということ、そして私たちは自然の一部だということに気付かされます。そして、時に自然は、脅威となること。その脅威を前に人間は無力であるということ。杉内さんたちは、今日も自然と向き合います。
人と人とのつながり、人と自然とのつながりを次世代に残す
アグリあぶくまでは、これからボランティアや体験アルバイトの募集も予定しているそう。
杉内さんは胸の内を話します。「土壌の放射能の汚染レベルは低くなってきていますが、植物によってはまだ油断を許さない。それはちゃんと考えてかなきゃいけない。これからは地域の再生、つまり人的交流やいろんな形での交流を通して、我々の事業がどれだけ地域に貢献できるか。さらに自分たちの取り組みに地産地消をどう組み込んでいけるか。食べ物が作られる現場、農業には価値がある。そんなオモイが届いたら。要はね、何のために働くか。何のために生きるか。原点は何かそんなところから湧き出てくるような気がするんです。良いものを楽しく食べて、楽しい毎日を過ごすっていうのが原点なんですよ」。
南相馬に来ると、大切なことを思い出します。今、自分が使っている電気がどこから来ているのかということ。今日、自分が食べたお米や野菜はどこで誰が作ってくれたものなのかということ。そして、今自分が立っている場所は、誰かの大切な故郷なのかもしれないということ。車を走らせながら常磐道から見える富岡町の菜の花畑を眺め、8年以上にもなる杉内さんたちとのつながりに感謝をし、また福島に足を運びたいと思ったのでした。
『つながるオモイ』ソープを手に取って、菜の花畑の広がりとともに、人と人のつながり、人と自然とのつながりを次世代に残す旅を一緒に歩み始めてみませんか?
道程
高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
2024年5月
12:11